2008年10月10日金曜日

■阿部老師提唱「十牛図」(五-2)

平成17年10月8日

五・牧牛(ぼくぎゅう)-2

十牛図でここが根本である。
・人生ポリシーを持つか、生き方に具現されているか?
この二つには距離がある。分かっているができない。

私・・・・牛    
知行合一、牛と私が一体、いかに一致、調和するか。

「一」をいだく、「法一」森先生
仏者の生きざまは牧牛である。

高く理想をかかげ、それに向かって・・・合一になるよう。実社会では何ができるか。
乾竹(乾いた竹)から油を絞るよう。人の修行(自分で目的設定)

ニート・フリーター、アスベスト、CO2問題・・・親、社会が放っておいた。(目先がよければ)
牧牛・・・個人のことであるが、国家、民族のことまで。

一般論の解釈は、竹とたづなを一時も離さないのは、牛がホコリにまみれないよう。
阿部老師の解釈は、牧牛は本来牛だから、たづなでつかまえていなくても、モウモウと泣いてひっぱっている。(どこでもどこでも)
・・・今さら何の工夫が必要か。泣いたり笑ったり生きているが。いつでもどこでもぴったり一緒なのだ。生まれた時から(自分自身なのだ)
吐く息、すべて、毛穴から・・・
いつも牛とともに歩んでいる

一般論ではそうだが、老師の新説は
「いつもいつも、ともにいたのだから、私のそばになついている
いつも 相引いて、ピッタリの世界
こっち あっちとしなくても 同じ歩調で生きていける。」

インドでは、牛が散歩している・・・そして家へ帰る。
先頭は風格のある牛。・・・他の牛がついていく

牛は本梨乃所にいると分かっているが

私たちのありかは実社会である。
何にでもなりうるし、なってきた(すべてのものに)
「純粋の本来の私」はまだなったことはない・・・理論上だけ。
観念でなく、この現実に生きる。
○○から◎オンリーワン・・・対立がない
心の葛藤で二者の足がからんで転倒することはない。
たった一つのいのちで生きている。

来住の人・・・役人、学者、先生・・・世間との係わり
それにとらわれず、牛と人が同じ調子で生きれば、本来のいのちの働きは

「泣くことも 笑うことも 牛の声」

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