2012年1月12日木曜日

■本当の自分とは(車のたとえで)

本当の自分とかもう一人の自分とは何のことでしょうか?





1,坐禅は己事究明
坐禅は「己事究明」・・・つまり本当の自分、もう一人の自分を究明することだとい合われます。(我が座禅会の会則の一番に書かれています)
坐禅の坐の字は土の上に人が2つ書かれていますね。これがそれを表しているのですが・・・
20年もやっているのに、その意味がよく分かっていない、分かったつもりでもよく身についていない。

2,人が二人とは
下の図は、これこそ私だと思う肉体の私が左のキューピーさん。それと全く同じ姿形で収まっているのがもう一人の自分(右のキューピーさん)
と言われてもピントこないでしょう・・・・。我々は五感で感じることしか信じられませんからね!!



















3,自動車で考えましょう
【引用:理想社会を考える会
もし、この体が本当の自分でなく乗り物である車だとしたら、あなたは車と運転手のどちらを大切にしますか?。どんなに車が立派でも、運転手が乗っていなければ車は動かないのです。車が勝手に動くことはないからです。人間も体が勝手に動くことはないのです。体の中に運転手が入って、こう動かそう、ああ動かそう、と考え運転するから体は動くのです。
では車と運転手と、どちらが本当の自分でしょうか?。そうです。運転手が本当の自分なのです。運転手と体があまりにも一体化しているため、車を自分だと勘違いしているのです。もし、つねっても叩いても痛く感じなかったら、もしかしたら体を自分だと思わないかも知れません。そうなら、火の中に手を入れ大火傷をしたり、手に釘を打ち込んで大怪我をしたり、お腹がすかないから食べないで飢え死にするかも知れません。それではボディーが維持できないので、私達には五つの感覚器官が与えられているのです。すなわち、見る目と、聞く耳と、匂いを嗅ぐ鼻と、味わう舌と、感触を感じる肌の、五つの感覚器官が与えられているのです。
私達のボディーと車とは実に良く似ています。車を動かすために、ガソリンやオイルや水を入れますが、私達も食べ物を食べ、水を飲みます。車には、サニーだとかコロナだとか名前が付いていますが、私達にも太郎とか花子とか名前が付いています。また人間は口を通してものをいいますが、車もクラクションを通してものをいいます。人間は排泄物を出しますが、車も排気ガスを出します。こうして見ると、私達と車とは実に良く似ていることが分かります。ただ、固いか柔らかいかの違いがあるだけです。
それでは、一番大切な部分に触れることにしましょう。車は運転手がものを考えますが、人間は誰がものを考えるのでしょうか?。もう少し分かりやすく、車は人間が乗って運転しますが、人間を運転しているのは一体誰なのでしょうか?。どんな名前の運転手なのでしょうか?。本当の自分は誰で、どんな名前の持ち主なのでしょうか?


























4,生命(いのち)が運転
【引用:同上】

誰もが、見て触れるこのボディーを自分だと思っております。でも本当の自分は、ボディーでは無いのです。本当の自分は、ボディーを運転している「生命」という名の運転手なのです。生命という名の運転手は、エネルギーですから目には見えません。その見えない生命エネルギーが、ものを考え、言葉を話し、行動しているのです。自分だと思っているこのボディーは、生命エネルギーの住処であり表現媒体なのです。ボディーは、老い、病み、死にますが、生命エネルギーは年も取らないし、病気にもならないし、死ぬこともない永遠不滅の存在なのです。
あなたに亡くなった祖父母がいたとしましょう。その祖父母は亡くなったのではなく、乗り物が無くなっただけで、運転していた生命は無くなっていないのです。今も生き、あなたを見守っています。使い物にならなくなった車が廃棄処分されるように、祖父母の体も使い物にならなくなったから廃棄処分されただけなのです。


















2012年1月8日日曜日

■阿部老師の色紙「龍珠放壽光」

阿部宗徹老師の新年の色紙をご紹介します!



1、2012年色紙

「龍珠放壽光」(りゅうじゅ じゅこうはなつ)




























2、解説

一見温和そうな兎(ウサギ)を卯歳にあてる。
お互いも同じように見かけとは異なり、激しく波打つ心の持ち主だ。昨年の春はだれもが穏やかな歳となることを祈った。


だが、卯歳の危うさは、あのおぞましい悲劇をもたらした。
思えば、世界中が生命や尊厳を侵す事が平気で繰り返され、見た目の利に迷い、今やこの地球すら危機に瀕している。私たちは、そのことを知ろうとしていないのだ。


この大波乱はなおも押し寄せている。大気は汚され、人知は天地の理にあまりにも無力である。


しかしながら、真にこのことに目覚め、守るべきを知るならば、必ずや確かな世界を導き出すであろう。


辰歳はその年なのだ。
ああ、願わくば護法の天龍、玉珠の無礙の光を以って暗雲を拂い
万邦は騒乱無く、人々は生命の輝きを増し、照らし照らされて、
引き裂かれることなく、侵すことなく、同胞は常に傍らに添い、
大地は清らかに、碧空は限りなく、いのちは豊かなならんことを。




静岡 臨済寺専門道場


    阿部宗徹 謹んで祷る




2012年1月4日水曜日

■2012年賀状

明けましておめでとうございます






















年賀状



































坐禅で心を洗いましょう、利己から利他の方向へ!