2008年10月28日火曜日

■武道と腹・・・丹田呼吸法(4)

5、体力を養う方法

・体力を養う方法はいろいろある。しかし、最も勝れそして根本的な方法は「腹力の養成からである」と共に、腹力の無いものは断じて完全な体力有しない。
・昔から武者修行者は「腹!腹!」と言って腹の鍛錬をやかましく主張した。しかし、いかにして腹力を養うことができるかというと、その方法については完全に教えていない。

5-1、ただ単に腹に力を入れよ!
 その方法を知らずにただ単に「腹に力を入れよ」というに過ぎない。それ故腹に力を入れようとする人の十中八九までは、下腹部即ち下丹田に力を入れることをせずに、否、出来ないので、上腹即ち中丹田に力を入れ、下腹部は返ってペコペコになっている。そのために力を入れれば入れるほど、上腹と
胸部とにのみ力が充ちて硬凸となる。そこに更に無呼吸状態と力を充たすことをやるから、忽ち恐るべき努責作用を惹き起こし、心臓や呼吸器に故障を生ずる者が出来るのは当然の結果である。

5-1、腹力を養う方法
 調和道 丹田呼吸法こそ正しい道である。




2008年10月27日月曜日

■武道と腹・・・丹田呼吸法(3)

4、精神を全身に充たす方法

4-1、雑念を取り去り意識の統一

 精神を全身に充たす、即ち渾身これ魂となるには、まず初めに於いて雑念を取り去り意識の統一が出来るようになることが先決問題である。言い換えれば、精神を一定の場所に集め、一定の事に集中する稽古に習熟しなければならないのである。

 然らばその一定の場所とはどこか。その場所は丹田であり、事は敵手である。まず丹田にウムと精神を集注する。そして敵手に全心をそそぐ。



4-2、精神力を全身に
 この精神の丹田における集中と、敵手への一心が凝り固まり、凝り固まった結果、それが漸次に拡充する。即ち始めは丹田にのみ凝固して居った精神力は次第に拡充して、遂に全身に及び、ここに全身ことごとく精神となり、心識となって沢庵禅師のいわゆる「心を何処にも置かねば、わが身いっぱいに行きわたりて、全体に伸びひろがりてあるほどに、手の入るときは手の用を叶え、足の入る時は足の用を叶え、目の入る時は目の用を叶え、その所々にっゆきわたりてあるほどに、その入る所々の用を叶うなり」とある。そこにまで到達することになるのである。

4-3、丹田に精神を集注する目的
 それ故「丹田に精神を集注する」ということは、最初の手段であって最後の目的ではない。けれどもその最初の手段に於いて成功しなければ、容易に最後の目的点に到達することは出来ないから、そこで腹力を養成してそこに精神を集注し、そこに気力を養わねばならぬということを唱道するのである。









 

 

■武道と腹・・・丹田呼吸法(2)

3、「全身これ心」となるために

3-1、方法は二つ
①30年、40年と長い歳月全身全霊を打ち込んで苦練修行し通した結果、それも天分豊かな人のみ。
②何か禅とか瞑想とかの特別の方法により意識修練の錬磨をやってその域に達する。

3-2、「苦練修行」の場合
 苦練修行によるのは容易のことではない。第一に体質の優れた無類な健康人であって、しかも気根精力ともに絶倫の異常人でなければ、断じて不可能である。古往今来その道に一身を投じてしかも名をなし、家をなした者の少ないのはこのためである。
3-3、「禅・瞑想」の場合                            
 そのため古来から、その道に入ってその技に熱衷し、一面において禅を修し、瞑想を凝らして精神錬磨に努力し、かくして「全身これ心」の奥儀に達する道を選んだその道の達人も少なくないのです。
 しかし禅や瞑想であっても、昔の超常的傑物であって始めてようやくその堂奥に入ることのできる難行道であって、体質気根ともに劣弱な現代人ができるものではなく、「入る者兎毛の如く、成る者麟角の如し」が実際であることから推して知ることができるのです。

3-4、「腹の力」による
 そうであるなら、いかにしてその要諦を掴むことができるのか。それは「万芸の奥儀真髄は腹に凝固せる気力によってのみ把握さるるのである」という。その腹の力、腹に凝り固まった精神気力、それによってのみその奥儀も真髄をも我がものとすることが出来るのである。
 要するに剣道は無論、全て武道の極意は、腹の気力要請によってのみ得られることになるのである。

■武道と腹・・・丹田呼吸法(1)

調和道丹田呼吸法2008・10会報から、
道祖・藤田霊斎より引用

・武道と腹
1、気海丹田で心を錬る
 昔から「気海丹田で心を錬る」ということがおしえられてあるが、このことは精神を丹田に集注することをいったのである。即ち意識の統一を腹でしようという、言換えれば、腹に意識を集注する、即ち気力をそこに満たすということである。
 しかし、それが剣道の極意かというと決してそうではなく、剣道の極意としては、沢庵禅師「不動智神妙録」に説いている「全身これ心」がそれである。

2、心をどこに置くか
2-1、「心を臍の下に押し込め、余所にやらず」
 仏法の工場の段より見れば、臍の下に押し込めて、余所にやらぬというのは、まだまだ修業段階のことである。
 臍の下に押し込んで他所へやるまいとすれば、やるまいと思う心に心を取られて、先の用が欠け、殊のほか不自由になるものだ。

2-2、「そうすれば何処に心を置くべきか」
 右の手に置けば右の手に取られて身の用が欠ける。心を眼に置けば、眼に取られて身の用が欠けるのです。右の足に心を置けば、右の足に心を取られて身の用がかける。何処なりと心を一つ所に心を置けば、他の方の用ははみんな欠けるのです。

2-3、「然らば心を何処に置くべきか」
 何処にも置かなければ、わが身にいっぱい行き渡り、全体に延びひろがってあるから、手の入る時は手の用を叶え、 足の入る時は足の用を叶え、目の入る時は目の用を叶え、その入る所々の用を叶うのである。もし一か所に定めて心を置けば、一か所に取られて用を欠くのです。
 思案すれば思案に取られることになるから、思案をも分別をも残さず、心を全身に捨て置き、一か所に止めないでいれば、その所々にあって用を外さないで叶うのです。
正心とは全身に心をくばって、一か所に付かないことをいう。
偏信とは心が一か所に留まって、一方が欠けることを偏心という。万事にかたまることは偏に落ちるといって、道にあって嫌うことなのである。(あいだみつを「やわらかいこころ」)

2-4、「全身これ心」
 どこに置こうという思いがなければ、心は全体に伸びひろがり、行き渡るものである。心をどこにも置かずに、敵の動きによってその場その場心をその場所場所で用心すべきか。全身にわたってあれば、手の入る時には手にある心を使うべし。足の入る時には足にある心を使うべし。 ただ一か所に止めない工夫、これみな修業なり。

2008年10月18日土曜日

■2008年大摂心会終了

大悲寺の、阿部老師による大坐禅会(摂心会)が2008・10・11から14日まで開催させました。・朝昼晩の参禅(いわゆる禅問答)・臨済寺修行僧との托鉢(大悲寺から秋田駅、秋田駅から大悲寺)・安部老師の禅の講演会「今を生きる」、前段に剣道の名人による『「剣と禅」現代の護身にに生かす剣』の実演・鎌田勉カメラマンが修行の傍ら写真を撮りましたので後日ご披露します。





すべて終わって記念撮影













雲水(修行僧)は、ここが終わっても修行の連続です








お寺に感謝「般若心経」!!








さすが阿部老師のもとの修行僧。いいお顔になっています!!
皆さんに作法を原点から教えていただきました。また来年もよろしくお願いいたします。





■阿部老師の禅の講演会開催される

阿部宗徹老師の講演会が10月13日大悲寺で開催されました。

大悲寺の、阿部老師による大坐禅会(摂心会)が2008・10・11から14日まで開催させました。・朝昼晩の参禅(いわゆる禅問答)・臨済寺修行僧との托鉢(大悲寺から秋田駅、秋田駅から大悲寺)・安部老師の禅の講演会「今を生きる」、前段に剣道の名人による『「剣と禅」現代の護身にに生かす剣』の実演・鎌田勉カメラマンが修行の傍ら写真を撮りましたので後日ご披露します。



老師公演の前に、会員の山部さんの『「剣と禅」現代の護身に生かす剣」をご披露いただきました。
さすがは、剣道教士7段の名人でした。中段の構えは「待て」、上段の構えは「打つぞ」。素人は中段のまま動かすな・・・。などなど参考になりました。
山部さんは山岡鉄舟の「剣と禅」の影響を受け、禅の修業しながら剣道の道を究めようとしております。



阿部老師の公演は「今を生きる」
詳細は次回。












2008年10月15日水曜日

■公案の体系

「禅のページ」から引用させていただきます
二 公案
数息観で身心一如となればそれでもう禅は完成でそこまででいいかというとそうではありません。その境涯に安住してしまうのは禅の、大乗仏教の大慈大悲の精神につながりません。そこで公案によって常見・断見を打破し、「小さな自己の壁を打破して宇宙的霊性の自覚にまで向上発展せしめ」(前著)ることが大切なことになるわけです。
現在実践されている公案は、そのほとんどすべてが江戸時代の白隠が体系化したものです。それによると公案は次の五種類に分類されています。

① 法身
この法身の則は公案の中でももっとも基本の公案であり、これによって一度自己をすべて否定し去り、「自己本来の面目」に気づかせてくれる、いわゆる「見性」体験をもたらしてもくれる公案です。
この代表的なものが「趙州無字」と呼ばれる公案です。これは無門慧開禅師という方が著した『無門関』という書物の第一則になっている公案です。

詳しい解説は専門書に譲ることにしたいと思いますが、ここではとにかく「法身の則」として、「通身」に、頭の天辺から足の爪先まで、体中で「無字」に参じて、吐く息も「ムー」、吸う息も「ムー」と、自分を空じていくというか、自分を「無」にしていくということです。それが「虚無」の「無」ではなく「有無」の「無」でもないという、そういう意味を越えた「ム」というのです。そうして修行していくといつか自分という小さな自己が砕け散って、宇宙的な人格、つまり「法身」が現われてくるというわけです。「法身の則」というのはそれに気がつくというか、それが身体でわかるということだと思います。一度否定し尽くした上での大肯定ということです。
次にこれも有名な「隻手音声」を紹介しておきます。
白隠云く、「両掌打って声あり、隻手に何の音声かある。」
両手を打てば音がします。これはわかります。ここでは片手の音を聞いてこい、というのです。世間的な常識では考えられません。これもやはり「無字」の公案と同様で、「通身」に、頭の天辺から足の爪先まで、体中で「隻手」に参じていきます。そうして修行していくとやがて「隻手」が見えてきます。「隻手」が聞こえてきます。



② 機関
公案の基本は「法身」ですが、それだけでは「一枚悟り」と言われ、日常生活の中で働き出るということができないと言われています。そこでこの「機関」の公案でこの働き、「用」ということを練っていきます。
ただし初めは公案を与えられても、その公案が「法身」なのか「機関」なのか分かりません。何度も独参入室して、何度も振鈴を鳴らされて、そういう中で「働き」として工夫し、練っていくわけです。これらはもう実参しないと意味がないと言いましょうか、わけが分からないと思います。ということもありますので、まだ実参されていない方は是非とも実参していただきたいと思います。
その有名なものとして傳大師の「空手にして鋤頭を把り、歩行して水牛に騎る。人橋上より過ぐれば、橋は流れて水は流れず。」という偈があります。



③ 言詮
これは言葉で表現するということです。禅の、あるいは仏教の、さらには宗教の、究極のところのものは言葉では言い表すことはできないと言われています。そこのところをあえて言葉で表現するとどうなるのか、ということがこの「言詮」の公案ということです。禅の言葉は支離滅裂で何が何だか全く分からない、人をバカにしたような表現だ、というふうにも言われていますが、この、言葉で表現できないところのものをあえてもう一歩突っ込んで、言葉で表現しようというのですから、そこで用いられる言葉はそういうふうにならざるをえないわけです。言うならば、言葉を超えた言葉ということです。
仏とはどんなものかと問われて、「乾屎 (屎かきべら)」と答えたというのは有名な公案です(『無門関』第二十一則)。仏という非常に尊いものを不浄な屎かきべらと言うのですから、たいへんなものです。そこのところにどう目をつけるか、そこが工夫のしどころです。


④ 難透
これは透ることが難しい公案ということです。しかし、ただ透るだけではなく、真にその境涯に至ることが難しいという意味を含んでいます。公案の数をたくさんこなしても、その境涯に至らなければ、単に頭の体操で終わってしまいます。
白隠八難透というのがあります。「疎山寿塔」「牛過窓櫺」「乾峰三種」「犀牛扇子」「白雲未在」「南泉遷化」「倩女離魂」「婆子焼庵」というのがそうですが、いずれも透るのももちろん難しいですし、その境涯にまで到達することは並大抵ではありません。


⑤ 向上
「更に参ぜよ三十年」という禅語があります。「三十年」というのは限りがないということです。どこかで満足して腰を落ち着けてしまっては、その途端に野狐に落ちます。常に「向上」していかなければ菩薩とは言えないわけです。

2008年10月14日火曜日

■秋田で托鉢

大悲寺の大摂心会の修行のために、静岡市の臨済寺修行僧5人が、秋田駅で托鉢





秋田市寺町 大悲寺を出発

阿部老師に挨拶して





秋田駅での托鉢
地産地のお祭りでにぎやかでした




















2008年10月10日金曜日

■阿部老師提唱「十牛図」(六-1)

平成18年10月7日

六・帰牛帰家(きぎゅうきか)-1

マドンナの公演に6万人、東京ドームで5万円なのに。つま恋の公演に3.8万人。
それは生き方(主張に)・・・共鳴した人々

問題提起
悩める老師・・・死刑執行について
執行する側・・・・・執行される側。 共鳴する側・・・・・共鳴しない側。

マホメット・・・預言者・・・神の刑罰・・・それを起こしたが
・啓示のときは神と同じ(コーラン)
・普段は普通の人(言行録」)
聖戦(ジハード)を正しいと信じ切っている。

禅宗教には経典がない。・・・問題提起
不殺生と言いながら、人が殺した肉を食べる・・・いいのか?
自分の物差しで判断・・・共鳴するかどうか

お釈迦さまは「近づいてはならない」・・・「危ういものに」
アナン尊者は・・・「仏の顔も三度まで:」と言われた(セクハラで)・・・「近づくな」
今は車です。当たり屋がいるから。

顧客満足度
何もないところから出る・・・十牛図
昔は・・・恵み、 今は・・・幸多い(外からやってくる、ハラいっぱい)
天地の恵み・・・不満足・・・探しに出た・・・十牛図である
○の中・・・永遠の恵みの牛
牛の姿(4つ、全身3)
十牛図は ○・・・初めからこの輪の中にいる

帰牛帰家・・・この輪の中にいることを納得した状態
どこに行く必要もなかった。ここでよかったのだ!!
・権威づけのためのブランドが必要・・・外には
・自分にはブランド不要
そのままの歌(俗曲)でよかった

目に見えるものすべて
悟り・・ひらきなおる(自分の世界に・ありのまま)
自分の今の姿を受けいれろ!!
真に求めれば・・・問題解決する





 

■阿部老師提唱「十牛図」(五-3)


平成17年10月9日

五、牧牛-3

牛も純熟・・・想いが行きわたった。
○―○=◎ 余すことなく、足りないことなく備わった。
仏も哲人も、普通の人も・・・・「花は紅 柳は緑」
誰にも同じ・・・苦しみ、悲しみ
違いは、それによって我を忘れることはないこと。

鏡はすべてを写す、残像は残らず=鏡がけがれないこと。
(プロゴルフアーがミスショットをしても・・・その余韻を残さない)

綱を引っ張れば引っ張るほど・・・本来はあるのだが・・・
今までのままで・・・つまづきながら生きているあかし
「青い鳥」は、求める人を笑ってうっちゃるだけ
「人生至る所青山あり」・・・古来の解釈では。

・泣くときは泣く 笑う時は笑う・・・目の前の環境に流されない
・鏡に写るよう(主体性)
泣く、悲しみ、笑い・・・ねたみ、怒り・・・命の光、私の人生。平然としているのではない。
ひとつひとつ乗り越え 気高くなった。
今さら逃げもしない。今のこの場で、いのちが輝きどうしではないか。
人格形成、自己実現・・・時間必要
苦節の式目があればこそ・・・一朝一夕ではできない。

やっと出会った牛(恋人)を見つけ、やっと一緒になった。
理想の追い求めた人・・・えっ、これが、この人が
①別れる
②乗り越えて仲良く・・・空気のような仲(歳月が人を変える)

秋田維摩会会員も自分を鍛え、外にアピールをせよ!
外に輝くように!!・・(内だけは修行のみだ)

日数経て・・・やっと身についた、この人生!!

■阿部老師提唱「十牛図」(五-2)

平成17年10月8日

五・牧牛(ぼくぎゅう)-2

十牛図でここが根本である。
・人生ポリシーを持つか、生き方に具現されているか?
この二つには距離がある。分かっているができない。

私・・・・牛    
知行合一、牛と私が一体、いかに一致、調和するか。

「一」をいだく、「法一」森先生
仏者の生きざまは牧牛である。

高く理想をかかげ、それに向かって・・・合一になるよう。実社会では何ができるか。
乾竹(乾いた竹)から油を絞るよう。人の修行(自分で目的設定)

ニート・フリーター、アスベスト、CO2問題・・・親、社会が放っておいた。(目先がよければ)
牧牛・・・個人のことであるが、国家、民族のことまで。

一般論の解釈は、竹とたづなを一時も離さないのは、牛がホコリにまみれないよう。
阿部老師の解釈は、牧牛は本来牛だから、たづなでつかまえていなくても、モウモウと泣いてひっぱっている。(どこでもどこでも)
・・・今さら何の工夫が必要か。泣いたり笑ったり生きているが。いつでもどこでもぴったり一緒なのだ。生まれた時から(自分自身なのだ)
吐く息、すべて、毛穴から・・・
いつも牛とともに歩んでいる

一般論ではそうだが、老師の新説は
「いつもいつも、ともにいたのだから、私のそばになついている
いつも 相引いて、ピッタリの世界
こっち あっちとしなくても 同じ歩調で生きていける。」

インドでは、牛が散歩している・・・そして家へ帰る。
先頭は風格のある牛。・・・他の牛がついていく

牛は本梨乃所にいると分かっているが

私たちのありかは実社会である。
何にでもなりうるし、なってきた(すべてのものに)
「純粋の本来の私」はまだなったことはない・・・理論上だけ。
観念でなく、この現実に生きる。
○○から◎オンリーワン・・・対立がない
心の葛藤で二者の足がからんで転倒することはない。
たった一つのいのちで生きている。

来住の人・・・役人、学者、先生・・・世間との係わり
それにとらわれず、牛と人が同じ調子で生きれば、本来のいのちの働きは

「泣くことも 笑うことも 牛の声」

2008年10月9日木曜日

■阿部老師提唱「十牛図」(五-1)


平成17年10月7日

五:牧牛 -1

悟りはなくてもいい。しかし禅的センスが欲しい。
少ないと何でもやるが、多いと分散する。差が出る。
全体のマネージャーがいない時代になった。


牧牛・・・本来は綱がない。放し飼い・・・キリスト教の牧場=野放しでも成り立っている。
幸せで生きたい。一本道(いのち、私)

本心に目覚める・・・大いなるこころ
この世界で生きている以上、この世界にたづさわらなければならない。
オンリーワン(無位の真人)・・・朝顔を洗う、ご飯を食べる・・・なんでもなれる。仕事でも主体性をもって生きる。
主人公たる自分自身が分からない。着る物だけ考えている。
いのちはこの世界に満ち満ちているではないか!!

自分の手で、足で、口で・・・この世界を生きていく。証拠を残す。
金があっても満足ではない。
今・ここ・私・・・自分が何者か! 何をすべきか! 一歩も足を止めない。歩みを止めてはならない。一本道を歩いている。

元から持っていたいのち。
元から牛、ピッタリ牛と私が一つになっている。ひっぱらなくても離れることはないのだ。まるごと私なのだ。
内なる自己の呼びかけが私たらしめた。
実はひっぱっている内らの牛であった!!!

万が一の時に的確に対応する。

10・8(振り返って)
牧牛は本来牛だから、手綱でつかまえなくてもモウモウと泣いてひっぱっている(どこでも、どこでも)
今更なんの工夫が必要か!
泣いたり、笑ったり生きているが・・・いつでも、どこでもピッタリ一緒なのだ。生まれた時から自分自身なのだ。

■阿部老師提唱「十牛図」(四)


平成16年10月28日
阿部宗徹老師の秋田維摩会大摂心・大悲寺での提唱 をダイジェストで記します。

四:得牛(とくぎゅう)

牛とは・・・自分の命、生き方のこと。
自己同一・・・アイデンテイテイの確立・・・40歳で不惑
人生の目的を定め・・・一向工夫(方法はいろいろ)・・・人生を歩く(創造的人生を!)

行に生き・願に生き・・・菩薩の行願
(秋田維摩会も外に働きかけること。自分の力をつけ外へ働きかける。人の心をうつものを。)
願を持たない者には教えない。協力しない。

自分が自分のいのちを生きるのだ。今日決めるのだ。
ショパンの例
病気になった・・・ヒラメキ・・・こう生きると決めた=ショパンの弾き方が変わった。」

固まった心をほぐすには・・・ムチで打つか!・・しかし時代が変わった。
この寒い冬を、自分の体温で生きる人間がいなくなった。

平成17年10月7日(振り返って)
初めから決まっていない。
最初から私自身であった。すべてがいのちの光明であったのだ。口、手、足。
契沖の車・・・・・車の本質=走ること
私が生きている、動いているとき「いのちの感動」がある。
一瞬一瞬対応し生き抜くことが人生である。