2008年10月9日木曜日

■阿部老師提唱「十牛図」(五-1)


平成17年10月7日

五:牧牛 -1

悟りはなくてもいい。しかし禅的センスが欲しい。
少ないと何でもやるが、多いと分散する。差が出る。
全体のマネージャーがいない時代になった。


牧牛・・・本来は綱がない。放し飼い・・・キリスト教の牧場=野放しでも成り立っている。
幸せで生きたい。一本道(いのち、私)

本心に目覚める・・・大いなるこころ
この世界で生きている以上、この世界にたづさわらなければならない。
オンリーワン(無位の真人)・・・朝顔を洗う、ご飯を食べる・・・なんでもなれる。仕事でも主体性をもって生きる。
主人公たる自分自身が分からない。着る物だけ考えている。
いのちはこの世界に満ち満ちているではないか!!

自分の手で、足で、口で・・・この世界を生きていく。証拠を残す。
金があっても満足ではない。
今・ここ・私・・・自分が何者か! 何をすべきか! 一歩も足を止めない。歩みを止めてはならない。一本道を歩いている。

元から持っていたいのち。
元から牛、ピッタリ牛と私が一つになっている。ひっぱらなくても離れることはないのだ。まるごと私なのだ。
内なる自己の呼びかけが私たらしめた。
実はひっぱっている内らの牛であった!!!

万が一の時に的確に対応する。

10・8(振り返って)
牧牛は本来牛だから、手綱でつかまえなくてもモウモウと泣いてひっぱっている(どこでも、どこでも)
今更なんの工夫が必要か!
泣いたり、笑ったり生きているが・・・いつでも、どこでもピッタリ一緒なのだ。生まれた時から自分自身なのだ。

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