道祖・藤田霊斎より引用
・武道と腹
1、気海丹田で心を錬る
昔から「気海丹田で心を錬る」ということがおしえられてあるが、このことは精神を丹田に集注することをいったのである。即ち意識の統一を腹でしようという、言換えれば、腹に意識を集注する、即ち気力をそこに満たすということである。
しかし、それが剣道の極意かというと決してそうではなく、剣道の極意としては、沢庵禅師「不動智神妙録」に説いている「全身これ心」がそれである。
2、心をどこに置くか
2-1、「心を臍の下に押し込め、余所にやらず」
仏法の工場の段より見れば、臍の下に押し込めて、余所にやらぬというのは、まだまだ修業段階のことである。
臍の下に押し込んで他所へやるまいとすれば、やるまいと思う心に心を取られて、先の用が欠け、殊のほか不自由になるものだ。
2-2、「そうすれば何処に心を置くべきか」
右の手に置けば右の手に取られて身の用が欠ける。心を眼に置けば、眼に取られて身の用が欠けるのです。右の足に心を置けば、右の足に心を取られて身の用がかける。何処なりと心を一つ所に心を置けば、他の方の用ははみんな欠けるのです。
2-3、「然らば心を何処に置くべきか」
何処にも置かなければ、わが身にいっぱい行き渡り、全体に延びひろがってあるから、手の入る時は手の用を叶え、 足の入る時は足の用を叶え、目の入る時は目の用を叶え、その入る所々の用を叶うのである。もし一か所に定めて心を置けば、一か所に取られて用を欠くのです。
思案すれば思案に取られることになるから、思案をも分別をも残さず、心を全身に捨て置き、一か所に止めないでいれば、その所々にあって用を外さないで叶うのです。
正心とは全身に心をくばって、一か所に付かないことをいう。
偏信とは心が一か所に留まって、一方が欠けることを偏心という。万事にかたまることは偏に落ちるといって、道にあって嫌うことなのである。(あいだみつを「やわらかいこころ」)
2-4、「全身これ心」
どこに置こうという思いがなければ、心は全体に伸びひろがり、行き渡るものである。心をどこにも置かずに、敵の動きによってその場その場心をその場所場所で用心すべきか。全身にわたってあれば、手の入る時には手にある心を使うべし。足の入る時には足にある心を使うべし。 ただ一か所に止めない工夫、これみな修業なり。
昔から「気海丹田で心を錬る」ということがおしえられてあるが、このことは精神を丹田に集注することをいったのである。即ち意識の統一を腹でしようという、言換えれば、腹に意識を集注する、即ち気力をそこに満たすということである。
しかし、それが剣道の極意かというと決してそうではなく、剣道の極意としては、沢庵禅師「不動智神妙録」に説いている「全身これ心」がそれである。
2、心をどこに置くか
2-1、「心を臍の下に押し込め、余所にやらず」
仏法の工場の段より見れば、臍の下に押し込めて、余所にやらぬというのは、まだまだ修業段階のことである。
臍の下に押し込んで他所へやるまいとすれば、やるまいと思う心に心を取られて、先の用が欠け、殊のほか不自由になるものだ。
2-2、「そうすれば何処に心を置くべきか」
右の手に置けば右の手に取られて身の用が欠ける。心を眼に置けば、眼に取られて身の用が欠けるのです。右の足に心を置けば、右の足に心を取られて身の用がかける。何処なりと心を一つ所に心を置けば、他の方の用ははみんな欠けるのです。
2-3、「然らば心を何処に置くべきか」
何処にも置かなければ、わが身にいっぱい行き渡り、全体に延びひろがってあるから、手の入る時は手の用を叶え、 足の入る時は足の用を叶え、目の入る時は目の用を叶え、その入る所々の用を叶うのである。もし一か所に定めて心を置けば、一か所に取られて用を欠くのです。
思案すれば思案に取られることになるから、思案をも分別をも残さず、心を全身に捨て置き、一か所に止めないでいれば、その所々にあって用を外さないで叶うのです。
正心とは全身に心をくばって、一か所に付かないことをいう。
偏信とは心が一か所に留まって、一方が欠けることを偏心という。万事にかたまることは偏に落ちるといって、道にあって嫌うことなのである。(あいだみつを「やわらかいこころ」)
2-4、「全身これ心」
どこに置こうという思いがなければ、心は全体に伸びひろがり、行き渡るものである。心をどこにも置かずに、敵の動きによってその場その場心をその場所場所で用心すべきか。全身にわたってあれば、手の入る時には手にある心を使うべし。足の入る時には足にある心を使うべし。 ただ一か所に止めない工夫、これみな修業なり。
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