「禅のページ」から引用させていただきます
二 公案
数息観で身心一如となればそれでもう禅は完成でそこまででいいかというとそうではありません。その境涯に安住してしまうのは禅の、大乗仏教の大慈大悲の精神につながりません。そこで公案によって常見・断見を打破し、「小さな自己の壁を打破して宇宙的霊性の自覚にまで向上発展せしめ」(前著)ることが大切なことになるわけです。
現在実践されている公案は、そのほとんどすべてが江戸時代の白隠が体系化したものです。それによると公案は次の五種類に分類されています。
① 法身
この法身の則は公案の中でももっとも基本の公案であり、これによって一度自己をすべて否定し去り、「自己本来の面目」に気づかせてくれる、いわゆる「見性」体験をもたらしてもくれる公案です。
この代表的なものが「趙州無字」と呼ばれる公案です。これは無門慧開禅師という方が著した『無門関』という書物の第一則になっている公案です。
詳しい解説は専門書に譲ることにしたいと思いますが、ここではとにかく「法身の則」として、「通身」に、頭の天辺から足の爪先まで、体中で「無字」に参じて、吐く息も「ムー」、吸う息も「ムー」と、自分を空じていくというか、自分を「無」にしていくということです。それが「虚無」の「無」ではなく「有無」の「無」でもないという、そういう意味を越えた「ム」というのです。そうして修行していくといつか自分という小さな自己が砕け散って、宇宙的な人格、つまり「法身」が現われてくるというわけです。「法身の則」というのはそれに気がつくというか、それが身体でわかるということだと思います。一度否定し尽くした上での大肯定ということです。
次にこれも有名な「隻手音声」を紹介しておきます。
白隠云く、「両掌打って声あり、隻手に何の音声かある。」
両手を打てば音がします。これはわかります。ここでは片手の音を聞いてこい、というのです。世間的な常識では考えられません。これもやはり「無字」の公案と同様で、「通身」に、頭の天辺から足の爪先まで、体中で「隻手」に参じていきます。そうして修行していくとやがて「隻手」が見えてきます。「隻手」が聞こえてきます。
② 機関
公案の基本は「法身」ですが、それだけでは「一枚悟り」と言われ、日常生活の中で働き出るということができないと言われています。そこでこの「機関」の公案でこの働き、「用」ということを練っていきます。
ただし初めは公案を与えられても、その公案が「法身」なのか「機関」なのか分かりません。何度も独参入室して、何度も振鈴を鳴らされて、そういう中で「働き」として工夫し、練っていくわけです。これらはもう実参しないと意味がないと言いましょうか、わけが分からないと思います。ということもありますので、まだ実参されていない方は是非とも実参していただきたいと思います。
その有名なものとして
傳大師の「空手にして鋤頭を把り、歩行して水牛に騎る。人橋上より過ぐれば、橋は流れて水は流れず。」という偈があります。
③ 言詮
これは言葉で表現するということです。禅の、あるいは仏教の、さらには宗教の、究極のところのものは言葉では言い表すことはできないと言われています。そこのところをあえて言葉で表現するとどうなるのか、ということがこの「言詮」の公案ということです。禅の言葉は支離滅裂で何が何だか全く分からない、人をバカにしたような表現だ、というふうにも言われていますが、この、言葉で表現できないところのものをあえてもう一歩突っ込んで、言葉で表現しようというのですから、そこで用いられる言葉はそういうふうにならざるをえないわけです。言うならば、言葉を超えた言葉ということです。
仏とはどんなものかと問われて、「乾屎 (屎かきべら)」と答えたというのは有名な公案です(『無門関』第二十一則)。仏という非常に尊いものを不浄な屎かきべらと言うのですから、たいへんなものです。そこのところにどう目をつけるか、そこが工夫のしどころです。
④ 難透
これは透ることが難しい公案ということです。しかし、ただ透るだけではなく、真にその境涯に至ることが難しいという意味を含んでいます。公案の数をたくさんこなしても、その境涯に至らなければ、単に頭の体操で終わってしまいます。
白隠八難透というのがあります。「疎山寿塔」「牛過窓櫺」「乾峰三種」「犀牛扇子」「白雲未在」「南泉遷化」「倩女離魂」「婆子焼庵」というのがそうですが、いずれも透るのももちろん難しいですし、その境涯にまで到達することは並大抵ではありません。
⑤ 向上
「更に参ぜよ三十年」という禅語があります。「三十年」というのは限りがないということです。どこかで満足して腰を落ち着けてしまっては、その途端に野狐に落ちます。常に「向上」していかなければ菩薩とは言えないわけです。