滝田 劇団四季のミュージカル「ジーザス・クライスト=スーパースター」のユダ役で注目され、NHK大河ドラマ「徳川家康」や朝の連続テレビ小説「なっちゃんの写真館」と立て続けに声をかけていただき、出演することができました。
――「家康」を演じた際、山岡荘八の『徳川家康』(講談社)を全巻読まれたそうですね。
滝田 もともとは『レ・ミゼラブル』が世界で一番長い小説で、それを山岡先生がもっと大きなドラマがあるから、といって『徳川家康』に挑戦されたと聞いています。僕は、その両方を演じたのですけど。(笑)
――役を演じるために、「徳川家康」では、お寺で修行をされたとうかがっています。
滝田 原作とシナリオに、家康が竹千代と呼ばれた少年時代、臨済寺で太原雪斎禅師に軍学を学んだとある。でも今川方の大参謀の雪斎禅師が敵方の人質の子に戦の仕方を教えるはずがないという疑問が浮かんだのです。
それで、僕のインスピレーションというか、すがる思いで、臨済寺を電話番号案内で調べて、「家康を知りたいので、置いてほしい」と電話をしたところ、「ここは臨済禅の僧堂で、開山以来全く変わらない厳しい生活をしているので、一般の方はご遠慮願いたい」と言われました。僕は、「素足で、地面を歩いたら竹千代と同じことを感じるかもしれない、それだけでいいから置いてください」と懇願したところ、「そこまで言うなら一日でも二日でも来てみなさい、ただし厳しいですよ」という返事でした。
それで、すぐに飛んでいったら、山門が閉ざされていて、「参禅中につき拝観謝絶」とあり、横の潜り戸から入ったら、俗界と全く違う。ある緊張感も伴って、張りつめた空気があった。あと、大きなお寺ですが、塵一つない見事な庭で、400年以上前と全く変わっていない、これは何かあるなと感じました。
修行僧と庭や本堂の掃除、食事の時間を共にし、彼らの坐禅中は部屋で心行くまで勉強し、そこで原作を読んだりしたわけですが、どうしても疑問が解けない。当時、僕は若く、大河ドラマの主役ということで気分が舞い上がって、馬にまたがり合戦に出ていくような、そんな外面的な英雄像を格好よく見せてやろうといった、雑念、妄想が全身を支配していて、人の苦しみや悲しみを表現する、人間のドラマだということが吹っ飛んでいたのです。
そんなとき、「ご隠居」と呼ばれていた倉内松堂老師が、「お勉強は捗りましたか。たまには息抜きにお茶でもどうですか」と、お茶に呼んでくださいました。そこで、甘い、渋い、苦いという三杯のお茶を体験し、「甘、渋、苦という三つの味わいをそろえて人生の味わいというんだ」といった話を聞いた後で、一枚の小さな掛軸を掛けられた。
亡くなられたお釈迦様を囲んですべての生きとし生けるものが涙を流している。「なぜ泣いていると思うかね」と振られたので、「お釈迦様ほどの方になるとお別れが悲しいのでしょう」と答えたら、「そのとおりだ。慈悲という苦しみを楽しみに変えてしまう力を教えてくれた偉大な師匠が旅立たれ、その別れを惜しんでいる絵だ。おそらく雪斎禅師はここで竹千代にこの涅槃図を示して、こういう武将になれと教えたんだと思うが、いかがか」と来た。要するにお釈迦様のごとき慈悲心に富んだ武将になれと、竹千代に教えたわけです。
そのとき、いつも黙って動かないが、遂に戦国の世を終わらせた家康の根本力がわかった。これさえわかれば、何をしていても、僕はもう家康でいられると確信を得た。それで、お礼を述べて、その日のうちに荷物をまとめて下山して、撮影に入ったわけです。
――インドに2年間、行かれたそうですね。
滝田 家康の撮影を終えたときに、いつか僕も坐禅をやってみようと思っていましたし、臨済寺の境内を一緒に掃いていた当時の修行僧、阿部宗徹老師は、臨済寺住職と花園大学学長となりましたが、これまでずっと僕の成長や変化をみつめてくれています。
その後、立派な人、偉い人を演じても、自分自身まだ足りない、僕自身の人生は意味がなくなってしまうのではないかと思って、いつかお寺に入って、心ゆくまで坐って、自分と相対してみる作業をしてみたかったのです。
「レ・ミゼラブル」は前日まで愚かだったのに、司教と出会い、心を入れかえて、今日からはよく生きようと思った男の物語で、「生まれ変わるんだ!」という絶叫がテーマになっているのです。16年間それを演じて、若い人に交代する頃に、多くの人たちが滂沱の涙で感動してくれた。帝国劇場のお客様が全員立ち上がって拍手をしてくださったのです。
その「レ・ミゼラブル」を終えた同じ年に、20年間司会を務めた「料理バンザイ!」という番組が、スポンサーの不祥事で突然終了していたのです。これらは残念な出来事ではあるのですが、そのときチャンスだと思った。
仕事も一旦すぱっと切れたので、自分はどのくらいのものなのかというのを、探ってみたくて……。一人になってみないとだめだ、誰も知らないところに行って、胸に手を当てて坐ってみようと思って、サンスクリット発祥の地と言われる南インドのアンダラ州へ行きました。古代からのインドの聖者がその地域から多く生まれ育っていると言われるところで、お釈迦様の仏蹟を訪ねながら2年間坐りました。(笑)
その後も長野市の大本山活禅寺の門弟として、禅の修行に打ち込んでいます。大勢の人たちと坐禅をしたあと、インドで修業中に食した乳粥を味わいながら、現代人としての正しい生き方を探求しているのです。
母親の死を契機に仏像を彫り続ける
――大僧正の瀬戸内寂聴さんが「滝田さんは、俳優としてはどうだか知りませんが、仏師としての腕は本物ですよ」とおもしろく述べております。仏像の彫刻を始めた理由は?
滝田 瀬戸内先生とは、雑誌等で対談したり、僧侶になるよう勧められた仲です。(笑)
僕の母は100人もの弟子に着物の仕立てを教えていましたが、4人目の僕を身籠もったとき、生まれつきの心臓弁膜症が発覚し、医者から出産を止められてしまうのです。それでも命がけで産んでくれたのが僕で、彼女が心臓の持病を悪化させ、入院する度に、死を強く意識するようになりました。そんな母が亡くなったとき、何と感謝をしてよいかわからず、どう供養しようかと思案していたのです。
そんなある日、以前、宮本武蔵をドラマで演じたときに、武蔵が観音像を彫っていたシーンを思い出して、「そういえばうちの母も観音様が好きだったな」と、観音様に願いを込めて、下手なりに彫ってみたいと……。
すると、ある仏師との縁ができて、「鉛筆をナイフで削れる指先があれば、誰でも仏像は彫れます」と言われ、その日のうちに小さな角材と彫刻刀を何本かもらってきて、先生の作品を手本にして彫ったら彫れたので、母の仏壇の隣に置いて供養しました。
それから数年後に父が他界し、「今度はもう少し大きいのを彫ってみよう」と思い、母のときより約3倍の仏像を1週間で彫りました。そのように供養のために始めたことに嵌ってしまい、仕事の合間に時間ができると仏像を彫るため八ヶ岳の山荘を訪ねています。
今は僕の等身大の仏像を彫っています。
――抜刀術(居合)の有段者であり、時代劇の殺陣で剣術を使う場面には本物の技を披露することもあるそうですが。
滝田 萬屋錦之助(中村錦之助)さんの立ち回りがすごいとかねがね思っていて、どういう練習をしているのか調べたら、居合いを兼ねて真剣を使っていると聞いて、それを超えるには型ではなくて実際に切るしかないと。それで、竹や巻藁、最終的には柱や鉄を切りまくって、真剣を何本か壊したほどです。
木刀と真剣の違いを体感し、真剣の扱いを体得しました。
福岡ソフトバンクの王貞治監督は読売巨人軍の現役時代、フラミンゴ打法をマスターするのに荒川博打撃コーチから「バットの芯を覚えろ」と言われて真剣で練習しました。刀の場合は芯でなく、刀尖、刃筋と言うのですが、身幅という刀の幅はそんなにない。厚さが数ミリです。その中心線は僅かで、それが通れば切れるのですが、それが少しでも反っていると、刀が曲がってしまいます。
刀の芯を極めてしまえば、野球の球を芯に当てるのは容易だと思います。それを極めたわけですから、王さんはすごい。(笑)。
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