1,雑念妄念とは
雑念妄念を一つの言葉『雑念』で表現していますが、佐藤先生の解説によれば雑念と妄念を分けて、『雑念』は外界の刺激により引き起こされる心の擾乱であり、『妄念』とは内界(内心)から湧き起こり心を擾乱させる念であるとしています。
2,雑念には数息観
そして、これらの退治には、『雑念には数息観』を、『妄念には随息観』を
用いるのだとしています。
用いるのだとしています。
数息観は臨済禅でも用いることがぁるようですが、一から十までの数を波浪息の
長息の吐く息に合わせて唱えます。
数え方は『トーツ、ターッ、ミ、― ッ、ョーッ、イッーッ、ムーツ、ナナーツ、ヤーツ、ココノーッ、トー』を繰り返しているうちに雑念を離れていくといぅことです。
長息の吐く息に合わせて唱えます。
数え方は『トーツ、ターッ、ミ、― ッ、ョーッ、イッーッ、ムーツ、ナナーツ、ヤーツ、ココノーッ、トー』を繰り返しているうちに雑念を離れていくといぅことです。
(註) ハヒフヘホは腹から空気が漏れる感じがするので、ヒトーッはトーッ、フターッは
ターツと呼ぶのが昔からの習慣です。また十以上の数を数えるのは頭を使うので十までし
か数えず、一に戻ります。数が分からなくなったときも一に戻ります。
3,随息観とは
随息観は吐く息に心を集中することによって、あるいは吐く息に従っていれば妄念を離
れていくということです。波浪息の長息において吐くときに『ウーム』と声に出して意識
私には道祖のように徹底的に雑念妄念を排除する事は出来ません。人間である限り煩悩
があるのは当たり前、雑念妄念もあるのは当たり前だと思っているからです。ただそれに
執着しないようにしているだけです。数息によっても雑念妄念が消えるわけではなく、全く気にならないようになるだけです。
『意馬心猿』という言葉があります。自分の『意』という馬は暴れて言うことを聞かず
御し難く、『心』という猿は枝から枝へ跳び移って一所に落ち着くことがない、
という意味です。
そこで、馬は暴れるままに、猿は跳び回るままにしておくと、
いつの間にか馬はゆっくりと草を食べており、
猿はどこかの枝で昼寝をしているということになるわけです。
という意味です。
そこで、馬は暴れるままに、猿は跳び回るままにしておくと、
いつの間にか馬はゆっくりと草を食べており、
猿はどこかの枝で昼寝をしているということになるわけです。
心というものは雑念妄念だらけで、落ち着かせようとすればするほど、落ち着かなくな
るわけで、あるがままに放置しておけばいつの間にか、静寂な状態に持っていける、とい
う道もあるということです。雑念妄念退治にはストイツクな道だけではないと言いたかっ
たのです。
いずれにしろ本気で観念息を目指すのであれば、数息随息で雑念妄念の制御から始める
必要があるわけです。
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