2011年2月27日日曜日

■佐々木徹さんが尺八奉納演奏

会員の佐々木徹さんの尺八演奏に聴きほれました!

1、秋田三十三観音霊場巡り
昨年十二月から、冬場の寒い時を選んで、週末に車でなく、わざわざ電車と徒歩で県内各地の秋田三十三観音霊場巡りをしています。今日が二十四番の大悲寺です。ちょうど坐禅会・秋田維摩会と合わせるようにしています。

















2、本堂で奉納演奏
お寺さんの了解のもと、本堂でご本尊様に向かって奉納演奏です。
佐々木徹さんは、学生時代からの経歴で、琴古流 海童道道曲(ワダツミドウドウキョク)です。
奉納曲は「手向(タムケ)」 下記に動画を添付します

















3、一同感動で声もなし!
坐禅会終了後残った人のみが名演奏を聞くことができました!!
ただただ感動のみ!!


















4、動画貼り付け


2011年2月25日金曜日

■なぜ坐禅をするか(6)

私、石井巡堂の考えです






















人間に4つの所属するゾーンがあります
①(左上)強くて悪い・・・一強百弱の世界
②(左下)悪くて弱い・・・地獄へ向いている
③(右下)弱くて良い・・・植物系グループ
④(右上)強くて良い・・・天国神の世界






























人間が目指すべき方向(坐禅の目的)

①右上の天国・蘇生・繁栄の方向

②ほとんどの人は、モノが欲しかった、もっともっと欲しい物欲の世界で生きてきました。今や方向が変わってきました。心を求める人が多くなったのです。

③心の方向とは、悪くて強いエゴ(我欲)の世界から右上の天国・蘇生の方 向に転換することです。 (これが洗心です)

④そちらをエヴア(慈悲・慈愛)ともいいます。

⑤英語でラブ(愛)です、日本語では慈愛です。またこれを「まごころ」といいます。

⑥「まごころ」は人間の心のなかで「理性心」のその奥にあるものです。「仏性」とも「一」とも「本来の自己」ともいうものです。
元々生まれた時にはみんな持ってきたものです。しかし、親に教えられ、学校で教えられ、テレビで教えられ・・・だんだんまごころが曇ってきているのです。
 (簡単でしたね! お寺さんがあまり難しいことをいっぱい、いっぱい言うものですからから何が何  だか分からなくなっているのです

⑦「まごころ」の力は限りなく大きいものです。本来持っている「まごころの力」をすべてのことに対
 応できるようになるため禅を修行します。派生する効果は、努力によっては皆さんが求めているすべてが得られることになります。


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下記の丸山敏雄著「万人幸福の栞」が私には大変参考になりました。一般の人には深く分かりやすいと思います。




■なぜ坐禅をするか(5)

わが秋田維摩会の目的


坐禅によって自己本来の面目を徹見する。(会則)

解説:愛知学院大学 禅研究所より
巌寺の師彦は常日頃ひたすら坐禅に精進していましたが、まいにち大声で「主人公」と自分に呼びかけ、「はい」と返事をしていたといいます。さらに、「目をさましているか」、「はい」、「人にだまされるなよ」、「はい」と自問自答するのがつねであったと伝えられています。
  「主人公」とは、一見、個としての人間を思わせることばですが、禅では「本来の自己」、「本来の面目」のことを意味します。自己本位の生き方を一歩突き破って、揺ぎない生き方を確立することをいいます。
  現今の複雑多岐にわたる社会の現実のなかで、わたしたちは、ややもすれば人間性を失って不安のなかに埋没してしまいがちです。
  近代文明の繁栄は、一度はわたしたちに人類福祉の夢を約束しましたが、この二百年の間に、すでにそれは幻影と化して、地球的規模の不安を増幅しつつあります。このような現実を克服する道はいろいろ考えうるわけですが、人間が自己本位の欲望に根ざす生き方にとどまる限り、根本的な解決にはなりません。どうしても”自己の究明”という課題に取りくまなければなりません。

■なぜ坐禅をするか(4)

心の図書館より

■なぜ坐禅をするか(3)

黄檗禅 公式サイトより



今なぜ坐禅・修行か
人が健康的に活動し、生活していくために必要なもの。体力面と精神面との調和・充実。それらを支え、大きく関係しているものが環境と食。体が不調を来たし、日常の活動が意のままにならない、必要に応じた行動が出来ないのは、これらのものが整わない事によるものです。先ずは現代社会において、不足し偏重されがちな面、環境と食を冷静に見て取り、その不足を補いましょう。或いはもっと改善し、身心共に鍛えましょう

分かり難いのが心の病、難治ともなり易い心に刺さった毒矢。毒矢は、速やかに抜き去らなければなりません。抜いたなら毒消しをし、傷口を縫合する。その上で自らの治癒エネルギーを待ちます。長く患っている人を見ると、どうもその処置を誤っているのではないかと、そう思えて仕方のない所があります。

どんな人の心にも体にも、エネルギー、活きていこうとする力が満ちています。あふれるエネルギーを持ち合わせているのに、使おうとしないで、エネルギー源に自ら蓋をしてしまっている。その蓋を我執と言う。
偏狭な我執を忘れさせ、そのエネルギーを引き出しましょう。押えておかないで、隠しておかないで、活用出来るようにしましょう
その為の当山での坐禅であり、修行であります。

■なぜ坐禅をするか(2)

屋久島坐禅修行道場より


今なぜ坐禅・修行か
人が健康的に活動し、生活していくために必要なもの。体力面と精神面との調和・充実。それらを支え、大きく関係しているものが環境と食。体が不調を来たし、日常の活動が意のままにならない、必要に応じた行動が出来ないのは、これらのものが整わない事によるものです。先ずは現代社会において、不足し偏重されがちな面、環境と食を冷静に見て取り、その不足を補いましょう。或いはもっと改善し、身心共に鍛えましょう

分かり難いのが心の病、難治ともなり易い心に刺さった毒矢。毒矢は、速やかに抜き去らなければなりません。抜いたなら毒消しをし、傷口を縫合する。その上で自らの治癒エネルギーを待ちます。長く患っている人を見ると、どうもその処置を誤っているのではないかと、そう思えて仕方のない所があります。

どんな人の心にも体にも、エネルギー、活きていこうとする力が満ちています。あふれるエネルギーを持ち合わせているのに、使おうとしないで、エネルギー源に自ら蓋をしてしまっている。その蓋を我執と言う。
偏狭な我執を忘れさせ、そのエネルギーを引き出しましょう。押えておかないで、隠しておかないで、活用出来るようにしましょう
その為の当山での坐禅であり、修行であります。

■なぜ坐禅をするか(1)

芙蓉寺坐禅修行道場から


坐禅と心の柱
良し悪しは別にして、他国の人々の多くは宗教を持っている。心の支えであり、柱でもある。わが日本において、先の戦時体制の時は無理やり信仰を持たされた。それが終わると無理やり
?捨てさせられた。人々は皆、茫然自失。今までの事は何だったのか。何を信じて行けばいいのか。時移り、そしてもはやその事は忘れよう。誰しもがそう思ってそうして来た。
そうして物の豊かさを追い求めた。目的が達成されたと思ったら、何かが欠けていた。
である。
今、公には宗教を論ずる事は出来ない。その故か心の事が余りにも等閑にされている。
事の善悪を決め、行動の基準を決める確固たる信念が無い。無いことは無い。薄れてきている。だから直ぐに揺れる。風が吹けばそちらになびく。
建物でも人間でも柱が無ければしっかりしたものにならない。当然のことです。

昔、宗教と言うより社会体制が、少なからずその心の柱形成の任を果たしたのだが。
幸いにも日本には未だそれなりの心が残っている。これ以上は心の侵食を防がなくてはならない。そう思う心を形に行動に示して欲しい。

坐禅そのものは宗教でも何でもなく、誰の所有物でもない。
坐禅をもっと有効に活用して頂きたいと思う。