2010年8月31日火曜日

■朝の坐禅と随息観


毎朝の呼吸法+坐禅では、太平山を目の前にし、朝日をお拝みながらの実習です。最近「不孤」という言葉が気になっています。

1、刻字作品「不孤」
だいぶ前に彫った作品です。書は私の大好きな蘇東坡で、ケヤキに彫っています。





















2、中村天風氏の「不孤」解説


中村天風「盛大な人生」、第三章 理想の摩訶力 p139


盛大な人生

「とにかく、常にすぐれた、恵まれた人生に生きたかったら、心の生活を豊にするためへの理想を気高いものにする。
それには、自分はどんな場合があろうと,宇宙霊と一体である・・・そいつさえ忘れなかったら、どんな健康的な出来事があろうと、運命的な出来事があろうと、自分は孤独ではないということがわかりそうなものだ。
おととし、私の誕生日の記念に、扇に「不孤(こならず)」と書いてあげたろう。「不孤」というのはひとりぼっちじゃないよという意味なんだ。ひとりぼっちじゃないよという意味は、お前には宇宙霊がついている、お前は宇宙霊の中にいるんだよということだ。」

*宇宙霊とは造物主、神、仏と同じ


3、太陽の恵み
太陽のプロミネンスです。太陽は今はおとなしい時期となっていますが、時々こんな活動をしています。そのプラズマとなったエネルギーは膨大なものです。
坐禅では地にいる私の身体を通して・・登頂から・・宇宙へ,太陽へとたどり着き、その太陽からエネルギーをほんの一掴み分けていただくいただくことをイメージしています。


4、太陽とは天照大神
世界中で太陽が神と考えられています(太陽信仰)。日本でも天照大神(アマテラス)が太陽神として考えられています。
ということで、太陽イコール神と考え、こんなことをしています。





















坐禅では、数息観と随息観があります。随息観の一つとしてこんな小道具で試みています。

2010年7月9日金曜日

■会報「黙泉」7月号




今月の特集はわが「こざくらの丘」にお出でになったことです。

2010年4月13日火曜日

■2010・4阿部老師の講演会



花園大学学長阿部宗徹老師の講演会が秋田市寺町大悲寺で行われました。

1、今回は大悲寺で開催
副住職が新命としておいでになりましたので、今回はお寺としました。





















2、会員だけでなく、檀家の皆様が大勢おいでになりました。





















3、阿部老師の講演





















内容一部
毎日の暮らしの中で禅の世界を体現するのだ。
人を認め、敬い、愛する
限りなく降り注ぐ愛・慈悲・・・本当はこれだけである!!
人は生まれた時は輝いている・・・大人は磨かなければ光らない(道元)

お寺が生き残るためには「もっと誠を尽くせ!!

4、記念写真

■春の集い





花園大学学長の阿部老師をお迎えしての春の集いがありました。



日  程  表
4月10日(土)
12:00
大悲寺集合(お迎え)
車:佐藤、石井、丹党、平塚
13:05
阿部老師:秋田空港到着

14:00
ホテル:ドーミーイン着
佐藤車
16:00
阿部老師:大悲寺へ
佐藤車
18:00
懇親会(協働大町ビル7F)
14名


4月11日(日)
 9:00  
全員:大悲寺集合

 9:00
阿部老師お迎
佐藤車
10:00 
阿倍老師講演(大悲寺)

11:00
笹尾住職講演

11:45
大悲寺発

12:30
秋田空港昼食
    お送り

 

2010年4月1日木曜日

■会報:黙泉4月号

会報:黙泉2010・4月号です。

4月11(日)阿部宗徹老師の講演会があります。
市民の皆様ふるってご参加下さい。
寺町大悲寺さんで、AM10:00からです、もちろん無料です。
阿部老師 10:00~11:00
笹尾住職 11:00~11:30 (時間はこちらが最終決定)

2010年3月26日金曜日

■DVDアースピルグラム(地球巡礼者)は公案

エハン・デラヴイが作った映画、アースピルグラム(地球巡礼者)はDVDで見られます。我々はみんな巡礼者である。人生は巡礼である。



解説

また、エルサレムを中心とした宗教紛争に関しても、日本人は「他人事」のように思ってしまう人が多いかもしれません。
 それは、決して日本人が「冷たい」と言っているわけではありません。学校教育の中で「宗教や哲学、思想」というものをしっかり教えてこなかったことが原因の一端だと私は感じています。私は哲学科出身故、倫理や思想史を中心に学んできましたが、それだって「ごくごくさわりの部分だけ」です。世界史における倫理や思想史における割合は本当にごく僅かで、順当に学校教育を経た人であればイスラムの宗教史、キリストの宗教史を知っている方がごく僅かであっても「無理はない」──そのように思えるのです。
 日本の学校教育は「高い偏差値」を取る為だけにあって、本当のこころの教育をする為のものではなかった──そうした弊害が、様々な形で、今日本に押し寄せているのかもしれません。

 その為、この映画作品は日本人にとって「理解しがたいもの」になってしまう面も否定は出来ない──そう私は思いました。
 でも、本来この映画で語られているのは「遙かに深淵で壮大なテーマ」なのです。
 この作品の中には「今、日本人に必要な答えが『描かれている』」私はそう感じました。
 いえ、それは日本に限ったことではなく、世界中のすべての人に言えることなのかもしれません。
 私たちは既存システムにおける限界のすれすれに立たされているにも関わらず、それでもなお、「従来のやり方」でそれを無理矢理型にはめようとしています。
 それでは「何も解決しないのだ」ということを、「地球巡礼者─アースピルグリム─」では語っています。

 私たちがこの追い詰められた状態の中で「何を、どうすればいいのか」──その答えは「公案にある」、この映画ではそう語られています。
 公案というのは「禅公案」のことです。
 馴染みのない方の為に簡単に説明しますと、日本における禅には道元の開いた「曹洞宗」と白隠の「臨済宗」(実際日本に持ち込んだのは栄西ですが、江戸時代に再度臨済禅を白隠が立て直してからの方が有名になった関係で白隠禅とも呼ばれています)の二者があります。
 禅公案を元に行うのは後者の「臨済宗」です。曹洞宗では「何も言わず、ただ座る(黙照禅)」ことを目的にし、対して臨済宗では「看話禅」といって、公案を掘り下げることを目的としています。
 もっとも、そんな呼び名は「どうでもいい」ことであって、曹洞宗にしろ臨済宗にしろ「目先だけの現実を超え、その向こう側に答えを求める」という姿勢は共通している──私はそのように感じています。
 要するに、「目先だけの損得、利潤、合理的な考え方では、『もう何も解決しないところまで来ているんだ』」ということを、私たちはまず何よりも自覚すべきなのではないでしょうか。

 社会が行き詰まっているのも、国が行き詰まっているのも、誰が悪いわけでもなく──「私達、個々人にだって責任があるのだ」と、私はそう思えるのです。
 なら「どうすればいいのか」?
 それは、「私たちひとりひとりが導き出すべきもの」であり、誰かに教わったりすがって導いてもらうものではないのでしょう。
それこそが「独立個人の本当の意味」であり、私たちが向かおうとする時代にとって最低必要条件なのかもしれません。

 余談ですが。
 「思考を突き詰めれば、やがて認識の壁にぶち当たってしまう。そして、その壁を越えられた時にこそ、私たちは自分達を束縛していた殻をつきやぶることが出来るのかも知れない」──多少言葉を変えていますが、人智学(アントロポゾフィー)で有名なルドルフ・シュタイナーも同じように言っています。
 彼が禅を体験していたかどうか定かではありませんが、「認識できる現象を超えたところにこそ、答えがある」ということを、同じように彼も知っていたのかもしれません。