秋田市寺町大悲寺の坐禅会秋田維摩会の会長をつとめています。歴史のある市民の坐禅会で師家は臨済寺専門道場師家及び花園大学学長・阿部宗徹老師です。 おちこぼれ会長ですが、何故こんなに禅や仏教はむずかしく教えるだろうか、本質を簡単に一般市民にも、分かりやすく伝えることが出来ないものかと、常々考え続けています。
2010年6月7日月曜日
2010年4月13日火曜日
■2010・4阿部老師の講演会
■春の集い
花園大学学長の阿部老師をお迎えしての春の集いがありました。
日 程 表
4月10日(土)
12:00 | 大悲寺集合(お迎え) | 車:佐藤、石井、丹党、平塚 |
13:05 | 阿部老師:秋田空港到着 | |
14:00 | ホテル:ドーミーイン着 | 佐藤車 |
16:00 | 阿部老師:大悲寺へ | 佐藤車 |
18:00 | 懇親会(協働大町ビル7F) | 14名 |
4月11日(日)
9:00 | 全員:大悲寺集合 | |
9:00 | 阿部老師お迎 | 佐藤車 |
10:00 | 阿倍老師講演(大悲寺) | |
11:00 | 笹尾住職講演 | |
11:45 | 大悲寺発 | |
12:30 | 秋田空港昼食 お送り |
2010年4月1日木曜日
2010年3月26日金曜日
■DVDアースピルグラム(地球巡礼者)は公案
エハン・デラヴイが作った映画、アースピルグラム(地球巡礼者)はDVDで見られます。我々はみんな巡礼者である。人生は巡礼である。

解説
また、エルサレムを中心とした宗教紛争に関しても、日本人は「他人事」のように思ってしまう人が多いかもしれません。
それは、決して日本人が「冷たい」と言っているわけではありません。学校教育の中で「宗教や哲学、思想」というものをしっかり教えてこなかったことが原因の一端だと私は感じています。私は哲学科出身故、倫理や思想史を中心に学んできましたが、それだって「ごくごくさわりの部分だけ」です。世界史における倫理や思想史における割合は本当にごく僅かで、順当に学校教育を経た人であればイスラムの宗教史、キリストの宗教史を知っている方がごく僅かであっても「無理はない」──そのように思えるのです。
日本の学校教育は「高い偏差値」を取る為だけにあって、本当のこころの教育をする為のものではなかった──そうした弊害が、様々な形で、今日本に押し寄せているのかもしれません。
その為、この映画作品は日本人にとって「理解しがたいもの」になってしまう面も否定は出来ない──そう私は思いました。
でも、本来この映画で語られているのは「遙かに深淵で壮大なテーマ」なのです。
この作品の中には「今、日本人に必要な答えが『描かれている』」私はそう感じました。
いえ、それは日本に限ったことではなく、世界中のすべての人に言えることなのかもしれません。
私たちは既存システムにおける限界のすれすれに立たされているにも関わらず、それでもなお、「従来のやり方」でそれを無理矢理型にはめようとしています。
それでは「何も解決しないのだ」ということを、「地球巡礼者─アースピルグリム─」では語っています。
私たちがこの追い詰められた状態の中で「何を、どうすればいいのか」──その答えは「公案にある」、この映画ではそう語られています。
公案というのは「禅公案」のことです。
馴染みのない方の為に簡単に説明しますと、日本における禅には道元の開いた「曹洞宗」と白隠の「臨済宗」(実際日本に持ち込んだのは栄西ですが、江戸時代に再度臨済禅を白隠が立て直してからの方が有名になった関係で白隠禅とも呼ばれています)の二者があります。
禅公案を元に行うのは後者の「臨済宗」です。曹洞宗では「何も言わず、ただ座る(黙照禅)」ことを目的にし、対して臨済宗では「看話禅」といって、公案を掘り下げることを目的としています。
もっとも、そんな呼び名は「どうでもいい」ことであって、曹洞宗にしろ臨済宗にしろ「目先だけの現実を超え、その向こう側に答えを求める」という姿勢は共通している──私はそのように感じています。
要するに、「目先だけの損得、利潤、合理的な考え方では、『もう何も解決しないところまで来ているんだ』」ということを、私たちはまず何よりも自覚すべきなのではないでしょうか。
社会が行き詰まっているのも、国が行き詰まっているのも、誰が悪いわけでもなく──「私達、個々人にだって責任があるのだ」と、私はそう思えるのです。
なら「どうすればいいのか」?
それは、「私たちひとりひとりが導き出すべきもの」であり、誰かに教わったりすがって導いてもらうものではないのでしょう。
それこそが「独立個人の本当の意味」であり、私たちが向かおうとする時代にとって最低必要条件なのかもしれません。
余談ですが。
「思考を突き詰めれば、やがて認識の壁にぶち当たってしまう。そして、その壁を越えられた時にこそ、私たちは自分達を束縛していた殻をつきやぶることが出来るのかも知れない」──多少言葉を変えていますが、人智学(アントロポゾフィー)で有名なルドルフ・シュタイナーも同じように言っています。
彼が禅を体験していたかどうか定かではありませんが、「認識できる現象を超えたところにこそ、答えがある」ということを、同じように彼も知っていたのかもしれません。

解説
また、エルサレムを中心とした宗教紛争に関しても、日本人は「他人事」のように思ってしまう人が多いかもしれません。
それは、決して日本人が「冷たい」と言っているわけではありません。学校教育の中で「宗教や哲学、思想」というものをしっかり教えてこなかったことが原因の一端だと私は感じています。私は哲学科出身故、倫理や思想史を中心に学んできましたが、それだって「ごくごくさわりの部分だけ」です。世界史における倫理や思想史における割合は本当にごく僅かで、順当に学校教育を経た人であればイスラムの宗教史、キリストの宗教史を知っている方がごく僅かであっても「無理はない」──そのように思えるのです。
日本の学校教育は「高い偏差値」を取る為だけにあって、本当のこころの教育をする為のものではなかった──そうした弊害が、様々な形で、今日本に押し寄せているのかもしれません。
その為、この映画作品は日本人にとって「理解しがたいもの」になってしまう面も否定は出来ない──そう私は思いました。
でも、本来この映画で語られているのは「遙かに深淵で壮大なテーマ」なのです。
この作品の中には「今、日本人に必要な答えが『描かれている』」私はそう感じました。
いえ、それは日本に限ったことではなく、世界中のすべての人に言えることなのかもしれません。
私たちは既存システムにおける限界のすれすれに立たされているにも関わらず、それでもなお、「従来のやり方」でそれを無理矢理型にはめようとしています。
それでは「何も解決しないのだ」ということを、「地球巡礼者─アースピルグリム─」では語っています。
私たちがこの追い詰められた状態の中で「何を、どうすればいいのか」──その答えは「公案にある」、この映画ではそう語られています。
公案というのは「禅公案」のことです。
馴染みのない方の為に簡単に説明しますと、日本における禅には道元の開いた「曹洞宗」と白隠の「臨済宗」(実際日本に持ち込んだのは栄西ですが、江戸時代に再度臨済禅を白隠が立て直してからの方が有名になった関係で白隠禅とも呼ばれています)の二者があります。
禅公案を元に行うのは後者の「臨済宗」です。曹洞宗では「何も言わず、ただ座る(黙照禅)」ことを目的にし、対して臨済宗では「看話禅」といって、公案を掘り下げることを目的としています。
もっとも、そんな呼び名は「どうでもいい」ことであって、曹洞宗にしろ臨済宗にしろ「目先だけの現実を超え、その向こう側に答えを求める」という姿勢は共通している──私はそのように感じています。
要するに、「目先だけの損得、利潤、合理的な考え方では、『もう何も解決しないところまで来ているんだ』」ということを、私たちはまず何よりも自覚すべきなのではないでしょうか。
社会が行き詰まっているのも、国が行き詰まっているのも、誰が悪いわけでもなく──「私達、個々人にだって責任があるのだ」と、私はそう思えるのです。
なら「どうすればいいのか」?
それは、「私たちひとりひとりが導き出すべきもの」であり、誰かに教わったりすがって導いてもらうものではないのでしょう。
それこそが「独立個人の本当の意味」であり、私たちが向かおうとする時代にとって最低必要条件なのかもしれません。
余談ですが。
「思考を突き詰めれば、やがて認識の壁にぶち当たってしまう。そして、その壁を越えられた時にこそ、私たちは自分達を束縛していた殻をつきやぶることが出来るのかも知れない」──多少言葉を変えていますが、人智学(アントロポゾフィー)で有名なルドルフ・シュタイナーも同じように言っています。
彼が禅を体験していたかどうか定かではありませんが、「認識できる現象を超えたところにこそ、答えがある」ということを、同じように彼も知っていたのかもしれません。
2010年3月13日土曜日
2010年3月5日金曜日
■丹田呼吸法(13)大振息
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