2009年7月10日金曜日

■玄侑宗久のなぜ坐禅か




ss

人間は、ものを考える能力を手に入れた代わりに動物的な勘を失っ
てしまったんだと思います。子どもは言葉を使って理論的に説明する
ことができない代わりに勘が優れています。犬や猫も「あいつは敵だ、
こっちは味方だ」といったことを敏感に察知する能力がある。この勘こ
そが人間が生きていくうえでもっとも大切な力なのに、言葉や理論で
ものごとを捉えられるようになると、今度は勘が衰えてしまう。
坐禅には、本来人間が持っていたこの勘を呼び戻す作用があるの
だと思います。坐禅をすることで、頭の中に概念のない状態、つまり
何も考えない状態を意図的に作り出します。その状態を作り出すに
は、何かに集中するのもいいですね。ただし、お菓子を焼くために
無心に卵白を泡立てるとか、包丁を研ぐとか、そういった結果を期
待するものはだめ。掃除はいいです。この場合、きれいにすること
よりからだを動かして集中することが目的ですから。ここを忘れない
ことです。つまり、途中で止めても問題のないことをするのが大事
なんです。落ち葉拾いは途中で止めても困りません。そう考えると
逆立ちもいいです。意識を集中させていないと倒れますから。
実は、意識を集中させるにはからだを動かす方が簡単です。坐
禅は敢えて動かずじっと坐り続けなければなりませんから、厳しい
のです。そこまで負荷をかければ見えてくるものがあります。そうは
いっても、一回や二回で会得するのは到底無理ですから、まずは
やってみることです。
坐禅の流儀はというと、私の属する臨済宗でも、曹洞宗、黄檗宗
でも脚の組み方と眼を半眼に保つ点は同じです。眼を閉じると思
考が完全に自由になってしまうので、半開きにします。坐り方は、
臨済宗と黄檗宗は対面(ほかの人と向き合って坐る)、曹洞宗は面
壁(壁に向かって坐る)です。

ss
何も考えないというのはけっこう難しい。だから、坐禅では意識的
にからだの内部感覚というものを使っていきます、たとえば息を吸っ
て頭から3センチくらい上まで満ちた何かが息を吐きながら全身に
広がっていく。こんなふうに頭の中に描いたりして自分のからだを
飼い馴らし、その感覚で遊んでみることです。
坐禅を体験して足が痛いという人がいますが、「痛い」というのは
概念です。からだの感覚は「痛い」というひと言で済まされるような
大雑把なものではないはずです。「左脚のふくらはぎのこちらが突
っ張っているな。反対に、こちらがゆるんでいるな」と細やかに、順
番に感じ取っていくのがからだの内部感覚に耳を傾けるということ。
これから坐禅をする人は、こんなふうにからだに意識を向けることを
知っておくと、坐禅もきついだけには終わらないんじゃないでしょうか。
「無」にならなければ、ということも考えない方がいい。「無」を意識
すること自体、すでに概念にとらわれているということですから。身動
きひとつしちゃいけないということでもありません。少しは動いていい
んですよ。警策は動いたから振り下ろされるのではなく、眠気を取っ
てあげたり、励ます、ほぐすなど、いろいろな意味があるんです。大
切なのは、微動するにしてもからだのどの部分がどのように動いて
いるかを細かく実感することです。
坐禅を会得していくまでには、誰でもある程度同じようなこころとか
らだの変化の道筋を辿ります。その意味では坐禅も経験科学です。
そしてからだはこころの噐。「安らぎを感じています」という人の肩が
パンパンに凝っているということはあり得ません。からだがほぐれて、
初めて安らいだこころが自然に生まれてきます。
遠い昔にお釈迦様が厳しい修行の末に辿り着いた解脱と真理へ
の道を、凡人の私たちもお釈迦様の背中を見ながら歩んでいこうと
いうのが仏教。それは我が身の中に仏を見出す旅なのです。すで
に合掌して佇む仏像は、実は私たちの中にある仏を拝んでくれて
いる。だから私たちも仏像に向かって拝み返すんです。坐禅で頭
から概念を取り払うことによって、段々と自分の中の仏様に出会っ
ていけるはずです。

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